オール電化
オール電化
エネルギーは「オール電化」に向かう
どの国においてもエネルギー戦略は極めて重要である。
最近は地球温暖化対策が活発に議論されているが、エネルギーは「環境問題」と表裏一体である。
また、エネルギー問題の一部は、化石燃料が絡む「資源問題」でもある。エネルギーをめぐる問題は多方面にわたるものであり、その戦略に国家としての存亡がかかっていると言っても過言ではない。
環境を守ることと資源を守ることは、本質的には別の議論である。
「環境」はどちらかというと「紳士協定」であり、「社会全体の利益」にかかわる問題である。明日何かが起こるというわけではないため、どうしても切迫感に欠ける。
これに対して「資源」はビジネスや生活が止まってしまうという死活問題であり、「個別の利益」にかかわる問題となる。
「環境」から「サステイナビリテイ」へとテーマが移り変わると共に、各国のエネルギー戦略は方針転換せざるを得なくなると思われる。
「全体」に関する紳士的な議論から、資源をめぐる「国益」にかかわる問題へと変わるからである。
紆余曲折はあっても、最終的に社会全体は「オール電化」に向かっていくと予想される。
電気エネルギーは再生可能な方法で作ることができ、それは必然的に「クリーン」で「持続可能」でもあるからである。
原子カや天然ガスといった新エネルギーは再生可能ではないため、徐々に減らしていくしかない。
再生可能なエネルギーには、水素と太陽エネルギーがある。ただし、水素は「水素を作るのに電気を作らなければならない」というジレンマがあり、持続可能な社会をつくるためには、太陽エネルギーを使った電気が将来的にメインとなることも予想される。
ただし、電気には「貯めにくい」という特性がある。
水素は、太陽エネルギーによる電気を貯めるための補助的な手段として利用されるかたちになることが予想される。
21世紀のエネルギーは、環境負荷が少ないのはもちろん、「再生産できる(=持続可能)」であることが絶対条件である。
その点で、水素は最もシンプルで再生可能なエネルギーであり、好ましいのである。そして、燃料電池を使って電気へと変換することができる。
だが、自動車などの燃料として直接使うのは、現実的には難しい。
水素エンジンは技術的には既に実用レベルに近づいていのであるが、水素を安全に貯蔵する技術はいまだにメドが立っていないのが現実である。
水素は元素の中で最も小さな物質であり、シーリング(閉じ込めておくこと)が極めて難しい。耐久消費財でもあり、長期間にわたる機密性を保証するのは容易ではないのである。
タクシーなどで使われる液化石油ガス(LPG)と決定的に違うのは、水素は「爆発」する危険性が高いということである。自動車は移動体であり、事故とは切っても切り離せない。エネルギー効率の点からも、水素はエンジンで燃焼させるよりも燃料電池で化学反応させた方が熱としてロスになる分が少なく、はるかに効率が良い。
こうしたことから、水素がエネルギーとして使われる可能性は、設置型のプラントで電力を一時的に蓄えるという補助的な使われ方以外には考えにくく、水素による蓄電がどこまで普及するかは、NAS電池など大型2次電池のコストと性能がどこまで改善するか次第である。
だがこれは「水素社会」は来ない、と言っているわけではない。持続可能な社会がめざす究極のゴールは「核融合」になとの予測がある。そこで使われるエネルギーは「重水素」であり、それこそが人々が漠然と思い描いてきた「水素社会」の姿ということになるのではないだろうか。
「力学エネルギー」から「電気エネルギー」へ
20世紀に世の中を動かしていたのは、内燃機関としての「エンジン」であった。
必要な原料は鉄であり、クルマや飛行機、船を動かすために石油を必要とした。だから、20世紀は石油争奪戦の歴史でもあった。
だが、今や世の中を動かしているのは、力学的にはモーターであり、世の中を動かす「エンジン」としての機能はコンピューターや電子部品へと移り変わりつつある。
テクノロジーの進歩と共に、工場の動力は蒸気機関から電力を使ったモーターヘと変わった。
家庭の中でも石油ランプが電灯へと変わり、ほうきは掃除機に、洗濯板は洗濯機へと、あらゆる道具が「電化」されていった。
社会を変える原動力がメカニクス(機械)からエレクトロニクス(電気・電子・ソフト)へと移り変わる中で、エネルギーの主役が石油からモーターへと変わるのも、資源の主役が鉄からレアメタルに変わるのも全て「必然」なのである。
社会全体が「電気」に向かっているからこそ、自動車が電気駆動へと変わるのもまた「必然」と言えよう。
このエネルギーの革命的変化によって、最も影響を受けるのが自動車産業になるだろう。これまで自動車産業は強固なピラミッド構造を形成する一方、様々な業種と連携しながらエコシステムを築き上げてきた。
だが、業界構造が磐石過ぎたために、結果的には世の中の変化から取り残されたとも言えるのではないだろうか。
鉄道ははるか以前に電車に切り替わっているというのに、自動車だけは相変わらず蒸気機関車のように「火」を使って走っている。周辺まで含めると、GDPの約2割を占める自動車産業が変わることによるインパクトは大きい。
動き始めた電気自動車
現在、中国では2008年だけでも年間で約2000万台の電動スクーターが製造されているという。このような規模で電動スクーターが普及した一つの原因は、中国の法律では、電動系の乗用車は免許なしで乗ることができ、ヘルメットの着用も義務付けられていないことによる所が大きい。
安いものでは3~5万円程度、高いものでも10万円程度で購入できるため、電勤スクーターの利用は年々広がりを見せている。中国国内では、電動スクーターのメーカーは数百社も存在する。バッテリーメーカーは数十社にも上る。
中国は国内のバッテリーメーカーや電装品メーカーを育てるために、意図的に野放しに近い政策をとっているとも推測される。
一方インドでは、2009年4月に印タタ・モーターズ社が日本円で20万円程度という低価格な小型自動車「nano」の販売を開始した。既に「国民車」といわれるほど、期待と人気を集めている。nanoのコンセプトは、「スクーターを2台並べて屋根を付ければ30万円以下で自動車が作れるだろう」、というものだ。
中国でこれだけ電動スクーターが広まっている現状を考えると、nanoと同じ発想で容易に小型電気自動車を作るのは難しくない。むしろ、より大きな付加価値を求めて自動車分野に進出するのは必然というべきであろう。あとは、完成度をどこまで向上できるかであるが、電気部品は水平分業化が進んでいるため、性能の良いモーターや電池は専門メーカーから容易に入手できる。エンジンと比べると短期間で性能を向上させやすい。
先進国の基準から考えれば、nanoは同じ”自動車”というカテゴリーとは認めたくないような代物である。ワイパーが1本しかなく、助手席側にはミラーも付いていない。ABSやエアバッグのような安全装置も装備されていない。
だが、新興国のユーザーにとって、今は自動車が「ある」ことが重要なのであり、次に大事なのが現実に買える「値段」ということになる。
安全性など今は二の次なのである。インドにおけるパーソナルな交通手段は、主にバイクであることを基点に考えれば、スクーターを並べて屋根を付けた程度でも、それが現実に手に入る値段ならば立派な「自動車」なのである。
先進国の価値観や基準を絶対視したり、ましてその価値観を押し付けたりしては、これからのビジネスを考える上で方向性を間違えることになる。
中国BYD(比亜迪)社は1995年に設立された企業で、もともとは携帯電話機の組み立てや自動車用の鉛蓄電池の製造を行っていた。そこからLiイオン2次電池を製造するようになり、今や世界第3位の生産量を誇っている(携帯電話機用では世界トップ)。
このような電池メーカーに過ぎないBYD社が、ついに電気自動車を製造するまでになった。
2008年12月から法人向けに発売を開始した「F3DM」というプラグイン・ハイブリッド車は、航行距離およそ100km、約2000回の充電が可能な電池を搭載し、最高速度は160km/hという性能を持つ。価格は約200万円だ。
また、2010年ころに発売を予定している「e6」という電気自動車は、268馬力で航続距離は実に400kmという。話半分としても200kmは走るというわけだ。BYD社は、米国の著名な投資家であるウオーレン・パフェット氏が10%出資していることでも知られる。
重要なのは、これまで自動車を作ったことのない企業でも電気自動車が作れるということである。
自動車業界からしてみれば、このような自動車はサスペンションが甘い、衝突安全性に問題があるなど、多くの欠点が目に付くかもしれない。
しかし、同じようなことは昔の日本製品に対しても言われていた。
地域によって求める基準が違うだけであり、時間が解決する問題でしかない。中国で年間2000万台規模の電動スクーターが製造されている現在、これからも電池メーカーやエレクトロニクスメーカーが次々と「当たり前」のように自動車を作ってくるのは間違いないと思われる。
一方米国では、ベンチャー企業である米テスラモーターズ社が、電気自動車メーカーとして注目を集めている。
「2009 Tesla Roadstar」という最新モデルの電気自動車は、航続距離350km、最高速度200km/h、およそ3.5時間の急速充電が可能で、価格は約1000万円だ。
また、2011年に販売予定の「Tesla Model S」というクーペタイプの電気自動車は、充電時間はおよそ45分で販売予定価格は約500万円を予定している。テスラモーターズ社は米国メーカーであり株主もついているので、発表は実際のスペックとそれほどかけ離れないだろう。
電気自動車は「実現は時間の問題」などというレベルではなく、商品として既に販売が始まっているものである。
2009年8月、米国政府はビッグ3とLiイオン2次電池開発で提携した企業などを対象に、総額24億米ドルもの「無償供与」を発表し、オバマ大統領は「次世代エコカーをめぐる競争で日本などから主導権を奪還する」という意向を表明している。2009年6月、日産自動車は米エネルギー省からの16億米ドルもの融資を受け、電気自動車を生産するためにテネシー州のスマーナ工場を拡充すると発表した。この融資は「先進技術を利用した自動車製造への融資制度(ATVMLP)」に基づいたもので、ATVMLPでは米連邦議会により250億米ドルもの予算枠が承認されている。
現在、日産自動車、米フォード・モーター社、テスラモーターズ社の3社が承認されている。電気自動車は、一過性のブームなどではない。
少なくとも米国政府はその実現に向けて本気で取り組んでいる。
電力ネットワークは「自立分散」へ
資源価格の上昇に伴うエネルギーコストの高騰にしても、地球温暖化対策にしても、いずれにせよ「脱石油」はもはや動かしがたい流れになっている。
国家安全保障という観点からも化石資源への依存をできる限り減らし、再生可能エネルギーの割合を1%でも増やさなければならない。
ここで言う「再生可能エネルギー」とは、具体的には太陽光や風力、水力による「発電」である。
バイオ燃料にしても、持続可能/再生可能とは、突き詰めれば「太陽エネルギーを使うこと」にほかならない。太陽のエネルギーはクリーンで持続可推である。持続可能を突き詰めることは、地球温暖化問題を自ずからクリアすることにもなる。
だが、再生可能エネルギーは一つひとつの発電量がとても小さく、不安定である。そのため、ネットワークで結んで全体をコントロールしていく必要がある。再生可能エネルギーを使おうとすると、エネルギーネットワークは必然的に「自律分散」になる。電力会社の業務は電力を供給すること自体よりも、エネルギーシステムを管理する方に比重が移っていくことが予想される。
これまで再生可能エネルギーはコストが高く、手間がかかり、効率が悪いので普及するはずがないと言われてきた。だがこの主張は「木を見て森を見ていない」と言わざるを得ない。ここでは効率や経済合理性を基準にしているのではなく、「エネルギー資源が十分に確保できなくなる」という状況を見越した上での話である。そこまでいかなくても化石燃料に頼り続ける限り、「資源ナショナリズム」の中で資源国に翻弄される状態が延々と続くことになるのは明らかである。
1859年に米国で初の油田が発見されて以来、石油の歴史はまだ150年に過ぎない。
それ以前は、例えばランプ用の燃料として使われていたのは鯨油(クジラの油)だった。1900年のパリ万国博覧会で発表された世界初のデイーゼルエンジンでは、ピーナツ油が燃料として使われた。石油は今では当然のように身の回りにあるが、扱いやすく価格が安価なエネルギーだから使っていたに過ぎない。石油は昔からの常識ではないのである。
エネルギーシステムの変化によって、経済の流れにも大きな変化が出てくる。火力発電で石油や石炭などをエネルギー源として使うことは、日本にとってはお金を常に海外に流出させることでもある。だが、太陽光発電などの再生可能エネルギーに転換すれば、お金の大半は国内に留まるようになる。地域経済を豊かにするという点でも意義は大きい。
東北・太平洋沖大震災が与える影響
今回の東北・太平洋沖大地震によって、東京電力の対応のマズさと危機管理能力の低さが露呈したことにより、日本のオール電化の動きは大幅に遅れることが予想される。
オール電化の大前提は電力がどんな状況においてもしっかりと供給されることであり、コレに対する信頼がなければオール電化に躊躇せざるを得ないこととなる。
ましてや今回の東京電力の対応を見ていると、この会社に対する信頼は失墜したと言わざるを得ず、反感を持った人も多数存在していると言えよう。
現実的にも原発が機能停止したことにより、現状での必要電力さえ賄え切れない状況では、電化への勢いは足踏みせざるを得ない。
世界の潮流は化石燃料から電気エネルギーへと加速される中で、日本がとりのこされてしまうことは国際競争力という点においても大きな痛手となり、今回の東京電力の失態の影響は計り知れないものがあるように思われる。
しかしその反動として、日本では自然エネルギーによる電化への流れが加速されることも予想される。