環境問題
環境問題
2007年に「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)が取りまとめた第4次評価報告書では、「地球温暖化はもはや疑う余地がない」と「断定」した。世界平均地上気温は1906~2005年の間に0.74(0.56~0.92)℃上昇したと共に、この平均気温の上昇のほとんどは人為起源の温室効果ガスの増加によってもたらされた可能性が非常に高いとしている。
地球温暖化が世間の注目を集め出したきっかけは、アル・ゴア元副米国大統領が温暖化によって引き起こされる数々の問題を訴える、「不都合な真実」というドキュメンタリー映画である。映画の中では、解けていく北極の氷、海面の上昇で沈む国ツバル、氷が解けることにより海で溺れる白熊などの映像が印象的に映し出されている。しかし、これらは過剰な演出なのは明らかだ。
コップに浮かべた氷が解けても水が溢れないのと同じく、海に浮いている北極の氷が解けたとしても海面が上昇することはない。既に、ツバルの水没は海面上昇によるものではなく、地盤沈下によるものだということは科学的にも検証されている。100年間で気温が約1℃近く上昇したというが、南極の平均気温は-10℃程度である。仮にそれが事実だとしても、そこで1℃程度上がっただけで、なぜ急に白熊が溺れるというのだろうか。水が氷になるのが0℃なのは、世界中変わらない。
当時は「地球温暖化」というテーマが目新しかったことと、元米国副大統領という立場の人が熱心に訴えているので、「地球温暖化」を鵜呑みにする人が多く出てきてしまった。
大気中に占めるCO2の割合は約0.04%でしかない。地球温暖化の議論では、1/10万~1/100万というケタでCO2が増減(1年間で平均1.9ppm増加)したことで気温が変わっている、と世界中が騒いでいる。下図はIPCCが地球温暖化の要因とされる要素と影響度を示したものだが、この中では大気中の水蒸気の変化やヒートアイランド現象の影響などは無視している。IPCCは「雲は未解明な部分が多く、見積もりができていない」と報告しているが、これを抜きにCO2を主な原因であると断定するのは無理がある。
気温変化(地球温暖化ではない)の原因については、ほかにもNOxやSOxといった温室効果ガスによる影響や、水蒸気(雲の量)が与える影響、太陽の活動周期の変化などの影響の方がはるかに大きいと指摘する専門家も少なくない。地球温暖化が事実かどうかは、いまだ不明のままである。しかし、少なくともCO2だけが原因でないことは確かであろう。データの基になっている温度計は、確認しやすいように都市部に設置されているものが多い。しかし、温度上昇分のうちCO2の影響だけを分けて測ることはできない。少なくとも日頃体感している「温暖化」とCO2に起因する「温暖化」は別物である、という事実は認識しておくべきだろう。
地球温暖化がなぜこれほど盛り上がっているのか?
このような状況の中、地球温暖化、それもC02だけが、なぜこれほど大きく取り上げられているのだろうか。
そこにはまず「エネルギー安全保障」という政治的な意図が強く働いていると思われる。
イギリスなど欧州の先進国は資源に乏しく、将来にわたってエネルギーを確保するために原子力を推進したいと考えている。しかし、チェルノブイリやスリーマイル島など、原子力発竃所での大きな事故が現実に起こっており、国民の原子力に対する不安感は根強い。
そこで新たに持ち込まれたのが、「CO2による温暖化」という尺度である。CO2の排出が基準になったことで、原子力発電は今や、CO2を排出しない「クリーン」な発電というイメージに変わりつつある。その新しい流れに、同じく資源に乏しい日本も積極的に乗っかっている感もある。
電気会社にとっても、コストが安く、運転の手間があまりかからない原子力発電を推進したいという考えがあると思われる。そこで、CO2温暖化説が既成事実であるかのように、広告などで露骨なほどアピールし、原子力発電所を造りやすくするための環境づくりに励んでいるとも思われる。
さらに総合商社などにとっては、CO2の「排出権取引」は新しいビジネスの“ネタ”である。重要なのは、コトの真偽ではなく、儲かるかどうかということなのだ。むしろ積極的に煽った方が、商売は大きくなるのである。
「最近は暑い」「集中豪雨が増えた」といった、人々が日頃感じている変化を巧みに利用し、「環境」という大義名分をつくって訴えかけているのではないだろうか。
現在、地球温暖化は環境問題を啓蒙する「シンボル」のようになっている。それどころか最近はCO2排出=環境問題と、ほとんど同義語のような扱いになることが多い。
環境問題はいわば「交通ルールを守りましょう」に近い世界共通の大義であり、下手に正面からは反対すれば悪者になる厄介な問題となっている。
地球温暖化の議論は「発展的解消」へ向かう
だが純粋な「環境問題」としては、地球温暖化以外にも大気汚染や水質汚濁、廃棄物の最終処理場の不足など、より現実的で緊急度が高い課題は他にもたくさんある。
そもそも地球温暖化が取り上げられる以前は、気象学者たちの常識は「地球の寒冷化」であった。実際に起こっているかさえ定かでない「地球温暖化」だけが大々的に取り上げられているのは、その裏側にビジネスや政治的意図が働いているからにほかならないと思われる。
我々ビジネスマンとして重要なのは、地球温曖化の真偽をめぐる訣論に加わることではなく、。「科学的証明が不可能である」という現実はきちんと理解しつつも、「決められたルールには従わがわなければならない」ということを認識することであろう。
「仮説」を鵜呑みにすることは危険であるが、どんなに疑わしくて不公平でも、いったん決まったルールはルールである。
2009年12月にコペンハーゲンで開催されるCOP15(気候変動枠組条約第15回締約国会議)では、地球温暖化対策の新たなルール(いわゆる「ポスト京都議定書」)が決定される予定であったが、各国の意見の調整がつかず何も決まっていない。
前述したように、地球温暖化は完全な科学的証明ができない性質のものであり、誰もが納得できる証明がない中では、緒局は各国の政治力や学会でのパワーバランスなど、様々な思惑が絡みながらルールが決まっていくことになる。
実際のビジネスに何らかの制約なり影響なりを及ぼすのは間違いないが、それが真実かどうかは、ほとんど関係がない。「誰にも分からないこと」なのだ。今はそう割り切ることが重要であろう。
「地球温暖化の議論は長くは続かない」可能性もある。昨年2010年12月に開催された気候変動枠組条約第16回締約国会議(COP16)で確認された内容が最後の国際的なルールになり、やがて立ち消えになる可能性が高いという見方もある。
これからインドが高度成長期に入ると、「資源」確保の方が国際的にもはるかに重要になると考えられる。
加えて、米国では長い景気低迷期が続くとともに、ドル安に向かう可能性が高い。
一方、新興国の成長で、資源やエネルギーの需要はますます伸びていく。
長期的なトレンドとして資源価格の上昇が続く可能性も極めて高い。
「環境」は、水・地下資源・エネルギーなどの諸問題を包括しながら、循環型社会をめざす「サステイナビリテイ」という概念へと変わっていくと考えられる。
地球温暖化が真実かどうかはさておき、「サステイナビリテイ」のための対策を取ることは、結果的にその対応策を取ることにもなる。
CO2による温暖化だけを取り上げて騒ぐ意味がほとんどなくなってしまうのである。
化石燃料の高騰や需要逼迫を背景に、CO2削減は「地球温暖化」ではなく、省資源(化石燃料の削減)目的へとテーマがすり替わっていく、というシナリオになる可能性が高い。
ただ、学者や役人の中には「地球温暖化の否定」が自らの死活問題になる人達も少なくない。ただし、「証明ができない」ということは、明確な結論は得られないということであり、結局は誰も傷付かず、地球温暖化問題は「サステイナビリテイ」へと「発展的解消」へと向かうだろう。
「環境」から「サステイナビリテイ」ヘ
現在、世界規模で積極的に取り組みが進められている代表例はいわゆる「環境問題」(=地球温暖化)であり,CO2削減のための様々な取り組みや排出量取引というかたちで、実生活にも少なからず影響が出ている。
これがきっかけで多くの人々が「地球の物理的限界」を意識するようになったことは間違いなく、いわゆる「環境問題」は、資源・エネルギー需給の逼迫に伴って、これらの問題を全て包含するかたちで「サステイナビリテイ」へと趣旨を変えていくものと予想される。
持続可能な循環型社会の形成に向けて、ビジネスやライフスタイルの見直しが求められるようになる。
日本や欧州など資源の乏しい国々にとっては、サステイナビリティは「サバイパピリテイ」(生存可能性)であり、国を存続させるために取り組まざるを得ない重要かつ避けては通れないテーマなのである。
どんな優れた技術や設備があっても、原材料がなければ無意味になる。豊かさを求めて資源の争奪戦が始まるのは避けられない。
これから100年、200年と社会を続けていくにはどうすればいいか、食料や資源、エネルギーの逼迫を契機に、世界共通のテーマとして真剣に考えることが最優先課題となるだろう。それが「サステイナビリテイ」である。
地球温暖化対策は、守らなかったところで明日すぐに地球がどうにかなるものではない。事実、米国は京都議定書には参加しておらず、カナダは京都議定書の目標達成を断念してしまった。
ルールを守らない場合でも国際的に非難されたり、排出権の購入という「罰金」を払ったりすれば済んでしまう。いわば「紳士協定」に過ぎないのである。
一方、資源やエネルギーの問題は、はるかに現実的で緊急度の高いテーマである。
原材料が手に入らなくなれば、どんな立派な工場のラインも止まってしまう。それどころか国家安全保障が脅かされ、生活に重大な支障をきたすことになる。
資源の争奪が激しくなるころには地球温暖化など構っていられなくなるはずである。
サステイナビリティのために「再生可能エネルギーの利用」や「再資源化」が進めば、結果的に環境問題に対処することにもなるため、「地球温暖化」を心配する意味は薄れてしまう。
地球温暖化は、環境問題の中のごく一部でしかない。もともとは「このままいくと地球が正常な気温を維持できなくなる」という問題提起だったはずなのである。
「環境」と「資源」はまぜこぜに議論されることが多いが、本来は別々の議論なはずである。
環境や資源の問題は、「サステイナビリテイ」というテーマの一分野でしかなく、時間の経過と共に、「地球温暖化」は「環境問題」全般へ、さらに「サステイナビリテイ」へと、より実質的なテーマへシフトしていかざるを得ないと推測される。
当たり前のことではあるが、大気、水、地下資源など、あらゆるものは有限である。これらは人類共通の貴重な財産であり、それを使うにも責任がある。本来は「お金さえ払えばどう使っても、どう処分してもいい」ということではないのである。
資源を浪費することは、将来にわたって社会全体にマイナスを与えることになるのである。
資源は限られており、これからは「モノ」が最も価値を持つ時代になるであろう。
米ドルという基軸虐貨を失う中で、世界共通の価値を持つものとして資源に注目が集まる。
製造業では原材料が高騰するリスクが格段に高まり、少なくとも価格と供給は現在よりはるかに不安定になる、ということは念頭に置いておく必要がある。
持続可能な形にビジネスを再構築する
将来にわたって社会を維持するために、できるだけ地球に負荷を与えない、社会にマイナスを与えない形へ、あらゆるビジネスを再構築する必要がある。
複雑なものを作れば、それだけ再資源化が難しくなる。
従って、できるだけシンプルな方がいいという考え方へと傾いていく。人間の力で元に戻せない資源やエネルギーなどは、できるだけ使うのをやめよう、という意識が強くなるのではないだろうか。
テーマが変わればルールや評価基準もまた、変わっていくことになる。
21世紀に社会と調和するためには、あらゆるビジネスが、「持続可能」な形に再構成することを迫られる。
再生可能を実現するためには、
- できるだけ再生可能なエネルギーを使う
- 再生産できない資源は極力使わない
- 資源を使う場合はリサイクルで繰り返し使う
ということである。
それは、ビジネスの形を、「”地球を壊すもの”から、”自然のサイクルに調和するもの”へと変えていこう」ということでもある。
持続可能を追求することは、環境を守ることにもなる。
20世紀のビジネスは、ひたすら大量生産し資源をどれだけ多く消費するかを競ってきた。
だが、その価値観はもう通用しなくなる。
「資源ナショナリズム」の機運が高まっていく中で、今後ビジネスで重視すべきなのは「調達」である。理想的なのは、100%再生可能エネルギーを使って生産し、使用後は資源を100%回収できる状態にすることであろう。
これからの再資源化は、環境保護というきれい事のためではなく、自らのビジネスを持続するための「リスクマネジメント」として捉えるべきなのである。
「環境」と「サステイナビリテイ」は似て非なるものである。
価値観が変わると、ほとんどのビジネスはこれまでのやり方を見直さざるを得なくなるであろう。
例えば、自動車はこれまで3年や5年でモデルチェンジをし、次々と新車を販売するという方法を繰り返してきた。 だが、資源や環境の問題から、今後は難しくなる。 数量で稼ぐことができなくなったら、新たな収益確保の方法を何か考えるしかない。
そもそも、使用後は確実に回収して再資源化することを考えないと、次に造るための原料さえ確保できなくなるかもしれないのである。
「環境対策車」として現在ハイブリッド車の販売が好調だ。
だが、ハイブリッド車でうたわれる「環境」とは「CO2の排出量が少ない」という1点である。
しかしハイブリッドは燃費が良いといっても、化石燃料(ガソリン)を消費することには変わりない。 構造が複雑ということは、製造や分解にそれだけ多くの資源とエネルギーが必要になるということなのである。
サステイナビリティの観点で言えば、ガソリン消費量が少ないこと以外は否定的な評価になってしまう。 CO2が地球温暖化の原因なのか、そもそも地球温暖化が実際に起こっているのか、科学的にはまだ証明されていない。
電気自動車の本格的な実用化が始まると、ハイブリッド車に対する評価は一転する可能性が高い。
原子力発電についても同じようなことが言える。
地球温暖化をきっかけに、原子力発電はCO2の排出が少ないという点で最近は「クリーン」という評価を得ている。
だが、同じくサステイナビリティという観点で言えば、地下資源を必要とするという点では石油などと変わらない。
当面の現実的な解決策ではあるが、最終ゴールではないという評価へと変わってくるだろう。
「環境」と「サステイナビリテイ」の違いとしてもう一つ例を挙げると、「再生産が可能であれば、省資源・省エネルギーにこだわる必要はない」ということである。
仮に太陽光発電や水力、風力などで全てのエネルギーを賄うことができるようになれば、それは「自然の恵み」として余すことなく使った方が良いのである。
或いは100%再資源化が可能であるならば、省資源化することにはあまり意味がなくなる。
もちろん無駄に使わないに越したことはないのではあるが。
サステイナビリティへの意識の高まりに伴って、ビジネスは根本的な考え方から見直しを迫られる。
社会の持続性を脅かすものは存在が許されなくなる。
これまで「消費」する一方だったのが、「循環」を強く意識したものへと変わっていく。
また、再生可能エネルギーが積極的に利用されるようになり、結果としてクリーン電力への転換が始まるものと予想される。
いずれにしても、自動車を含めてあらゆるものが「電気」へと収斂していくのがゴールだということを理解することが重要なのである。